新世界のゼロ(1)

知らない部屋で目が覚めた。

汚れひとつない真っ白な天井を見上げながら、僕は痛む頭を押さえて身を起こす。何だここ、僕はいったい――

周りをぐるりと見渡してみる。部屋は全面1メートル四方の真っ白なタイルで埋め尽くされていて、その中心に備えられたベッドに横たわっていたようだ。家具のようなものは何もなく、壁には出入口がひとつあるだけだ。ベッドはなんの飾りもない簡素なもので、汚れ一つ無いシーツが眩しい。

周りを観察しながら、記憶を掘り返す。でも、何も思い出せなかった。記憶がないのだ。ここに来た記憶どころか、来る前になにをしていたのか、どこに住んでいたのか、僕が何者なのか――すべて忘れてしまっていた。不安が一気に押し寄せてくる。

痛みで考えがまとまらなかった。頭の中を直接かなづちで殴られているような気分だ。喉がからからに渇いて、息をするのも辛いくらいだった。胃の中は空っぽなのに、不安はどろどろに溶けて胃の底に固まっているみたいに感じた。

空腹と脱水に押されて立ち上がろうとするけれど、僕はベッドから転げ落ちた。足に力が入らない。怪我して何日も入院したときみたいに、筋肉がすべて衰えているようだった。僕は床を舐めながら、いうことをきかない腕をむりやり動かして、なんとか出口の引き戸にたどり着いた。

まともに立ち上がれるようになったのは、開かない扉に四苦八苦して30分くらい経ってからだった。

 

 

 

部屋を出てみると、先の見えない長い廊下が右側に続いていた。左側は50メートルくらい先に壁がある。廊下は部屋と同じように全面タイル張りで、照明もないのに目がくらむほど明るい。

戸惑いながら右側に歩き出そうとすると、どこかから足音が聞こえてきた。左側の廊下の突き当たりから人影が現れる。いや、突き当たりだと思っていたけど、どうやら丁字路になっていて横に通路が続いているようだ。

見知らぬ場所で不安に押しつぶされそうだった僕は、安堵のため息をついた。なぜか、僕以外の人間がどこにもいないんじゃないかと錯覚していたからだ。

まっすぐ通り過ぎようとしていた人影は僕を見て、進路をこちらに変えて歩いてくる。僕は涸れて貼り付いた喉から無理やり声を絞り出した。

「あっ、の、ここは、ここ、どこですかっ。僕はっ」

紙をくしゃくしゃに丸めたような声が出てしまって、僕は喉をおさえて咳き込んだ。その間に僕の目の前で立ち止まっていたその人は、15歳くらいの小柄な女の子だった。全身白ずくめで、肌までもが着ている白衣と同じくらい白い。まるで生気が感じられなくて不気味だった。綺麗に保存されたゾンビみたいな顔で、僕を見上げたまましばらく微動だにしないものだから、びくびくしながら口を開こうとすると。

「Language――JAPANESE、クリア。声紋・容姿解析――被検体J0003、クリア。診断――オールグリーン、クリア」

僕をさえぎって、恐ろしい早口で彼女が呟く。その小さな声が聞こえなかった僕は、戸惑いながらもう一度彼女に話しかけようとする。

「あの」

「おはようございます。ハル様。飲み物をご所望でしたら、食堂へ案内します。どうぞ」

「あ、うん、ありがとう」じゃなくて。

僕は振り向いて歩き出そうとした彼女の腕を掴んだ。

「あのっここ、ここはどこなの? なんで、僕はなんでこんなとこに、君はっ、ええと」

「……私はSurvive Assist and Regenerate for human Androidです。サラと呼ばれています」

サラは僕に向き直って、慌てる僕を落ち着かせるように、ゆっくりと事務的な口調で説明した。

アンドロイド。流暢な発音だったけれど、英語が苦手な僕でもたしかに聞き取れた。アンドロイド――ロボットってことだ。でも、どう見ても人間じゃないか。こんなに精巧なロボットが造れるなんて、聞いたことがない。さっき掴んだままの手を確かめても、人間にしか見えない。ぬくもりもちゃんとあるし、絶対にあるはずの機構の継ぎ目がどこにも見当たらない。さっき歩いてくる動作だって、完全に人間のものだった。

「ハル様は自らの意思でこの施設にやってきました」

僕がまじまじと観察していると、ずっと黙っていたサラが口を開いた。僕は我に返って、慌ててつかんでいた手を放した。

「この施設の機密書類保管室にハル様がサインした書類、およびデータが保管されています。風化を抑えるために保管室全体にコールドスリープを施して――」

僕がここに自分から来ただって? そんなはずない。記憶がないにしたっておかしい話だ。起きる前に僕が何をしていたのかはわからないけれど、こんな得体のしれない場所にすすんで来るはずがない。

「ハロー、ハロー、ハル様。……精神値が不安定ですが、どうかしましたか」

サラが感情のない顔で覗き込んでくる。動揺して話をぜんぜん聞いていなかった。

思い出せない記憶のことはあとにして、まず現状の把握を済ませることにしよう。

よし、と呟き、僕は頭を振って考えを振り払った。前に向き直って、僕を見つめるサラに気づいてしまう。

「ハル様」「なんでもないよっなんでも」

返事のない僕が異常と感じたのか、さらに顔を近づけてくるものだから、僕は恥ずかしくなって顔を背けてしまう。機構の継ぎ目はないけれど、ロボットだけあって綺麗な顔立ちだった。

サラは首を傾げて、ひとまず食堂へ案内しますと言って歩き出した。僕はさっきふり飛ばしたはずの不安が背中に張り付いているのを感じながらも、喉の渇きを思い出して素直に従うことにした。

「ごめん、さっきちゃんと聞いてなかったんだけど、ここはどこなの?」

僕は歩きながら、先を行くサラに再び問いかける。耳を澄ましてみると、サラの歩く足音に紛れて金属が擦れるような甲高い音が聞こえる。なるほど、肌はなにかの素材でコーティングしてあっても、やっぱり内側はロボットらしく機構が張り巡らされているのだろう。

「ここは政府直属の研究所、アルクトゥルスです。旧東京都千代田区霞ヶ関にあたる土地が現在の座標です。水面下131メートルが現在の深度で、施設における地下31階にあたる部分です。このアルクトゥルスは60階層、620平方キロメートルの敷地を備える施設となっていますので、無闇に歩き回らないようにお願い致します」

驚きの連続だった。東京の地下にそんな施設があったなんて、都市伝説でしか聞いたことがなかったのに、ほんとうにあったのか。それに、620平方キロメートルだって? 23区の地下がまるまるこの施設になっているということになる。

僕は天井を見上げた。部屋で目覚めた時と同じタイル張りの天井だ。この上にいくつもここと同じ層があって、さらにその上には蜘蛛の巣のように走り回る地下鉄の線路があって、地表はその先にあるのだという。まるで信じられない話だった。

「僕はなんでここにいるの? 僕なにも覚えてないんだ。寝て起きたら、もう、空っぽだったんだ。ねえ、昨日まで僕はなにをしてたの? ここで暮らしてたの?」

矢継ぎ早に聞くと、サラは僕が落ち着くのを待つように、しばらく無言で歩き続けた。耐え切れずに早歩きでサラに追いついて覗き込むと、僕の顔をちらと見て言った。

「昨日ではありません」

サラは言葉を選んで話しはじめたようだった。まるでロボットとは思えないその仕草に違和感を覚えて、余命を宣告される病人みたいな気分で次の言葉を待つ。

「あの部屋はハル様、および他の被験者である9999名のために用意された個室です。コールドスリープによってハル様の生命、および身体の状態はコールドスリープ前とほとんど変化することなく維持されました。その過程で発生したロスとして、記憶障害、身体能力の低下、覚醒時の空腹・脱水などはシミュレートの一環で確認した事例ですが、生命活動には問題はありません。アルクトゥルス研究員は、このコールドスリープが約2億年間継続可能と想定し、ハル様を含む10000名を計画に迎え入れました」

いつの間にか僕は立ち止まっていた。どういうこと? 10000人って、そんな人数がこの施設に、そのコールドスリープで眠らされているっていうのか。からからに渇いていたはずなのに、汗が滝のように流れ落ちる。無意識にきつく握り締めていた手は、じっとりと濡れていた。いや、それよりも――。

「2億年、って……」

僕は嫌な味がする唾を飲み込んで声を絞り出した。もう喉の渇きなんてとっくに忘れて、何かに祈りながらサラの答えを待った。

「……ハル様が眠りについたのは平成30年」

サラが無機質な声で言う。

「およそ1億8000万年前です」

 

 

 

東京ドームくらい広い食堂に案内されてからも、僕はまだ現実を受け入れられずにいた。サラが勧めてくれた椅子をぼうっと見つめたまま、サラの言葉が頭を目まぐるしく回り続ける。1億8000万年――ここに眠っている10000人が、順番に生まれて死んだとしても足りないほど膨大な時間だ。そんな長いあいだ、僕たちが眠っていたのはなぜだ? なにか理由があったのか? 僕はまだ夢の中にいるんじゃないか。そうでなければ、映画の撮影かなにかじゃないか。なんだこれ、これから僕はどうすればいいんだ?

目の前のテーブルに、水の入ったコップが置かれる。顔を上げると、トレイを抱えたサラが僕をまっすぐ見つめていた。

「どうぞ」

いまの現状をいちばん把握しているのは、おそらく彼女だ。この絶望的な状況のなかで、サラがそばにいてくれたのは救いかもしれない。僕は貰った水を一気に飲み干して、椅子に座った。

「サラ、ほかの人ってどこにいるの? 僕以外の、その、眠ってる人たちって」

食堂には丸いテーブルと椅子が端までまんべんなく設置してあり、人影はどこにもなかった。この広大な施設のなかで、サラ以外の人間はどこにもいなかった。ほかの9999人もだ。

「覚醒した方はハル様を含めて3名です。当施設の被験者は、コールドスリープ開始の順番に応じてナンバリングされており、ハル様はJ0003、3番目の被験者となっております。ハル様の前に覚醒されたJ0002、およびJ0001の両名は、覚醒後すぐに施設を離れ、現在の消息は不明です」

施設を出た、ということは、自宅に帰ったということだろうか。でも、1億8000万年もの時間が経っているのだ。自宅なんてもう残っていないだろうけれど、その2人は記憶があるのだろう。向かうべき場所があるから、ここを出たのだ。なんだか浦島太郎になった気分だ。そうなると、ますますなくなった記憶が気になってくるものである。コールドスリープ前には亀でも助けたんだろうか。

「そうだっ僕の記憶!サラ、僕が眠る前、何やってたか知らないっ?」

僕は思いついて、立ち上がってサラに食いかかってしまう。テーブルが揺れて、空になったコップが倒れる。思った以上に大きな声が出てしまい、申し訳なくなって腰を下ろした。

「……残念ながら、私はハル様のコールドスリープ以前の記憶は存じません。全ての被験者のプライバシーは、どんな形であれ侵害してはならないというプラグラムですので」

サラは驚いた素振りも見せずに、取り出したハンカチでテーブルについた円形の水滴を拭き取る。倒れたコップを取り上げ、トレイに載せてどこかへ去っていく。

期待はしていなかった。けれど、ほんの少しでも希望だった。すがるものがなにもなくなったせいで、僕はまた途方にくれることになる。でもすぐに、食堂の奥から香ばしい匂いが漂ってきて、からっぽになった胃を刺激してなにも考えられなくなる。サラが運んできた豪華な食事をすぐに平らげると、それに合わせてサラが暖かいお茶を出してくれる。

「私はハル様の過去は存じません。ですが、地上にはハル様の記憶を探る手がかりが存在するはずです」

食べ終わった食器を、すこしの音も立てずにトレイに載せながらサラは言った。

「私はここから出ることができません。ですので、確証は持てませんが、外の世界に行けば、あるいは――」

僕はすこし悩んでから、ゆっくりと立ち上がった。どのみちほかに手がかりはない。

「行くよ。ご飯、ありがとう。出口はどこなの?」

サラは僕の返事を聞いて頷く。

このときの僕は、この新しい世界を知らなかった。僕が思っているよりも絶望的で、2億年という時が、世界にどれだけの影響を与えたのかを、甘く見ていたのだ。

 

 

(広いエントランスの描写)

 

天まで突き抜けるんじゃないかと思うほどに長いエレベーターだった。薄暗い箱の中で僕は、壁にもたれながら天井を見上げる。僕がいま直面しているあらゆる問題を、もう自分では処理しきれなかった。

頭の中をぐるぐると回っている答えの出ない悩みは、到着を告げる人工音声によってかき消された。音も重力感もなく箱は止まり、目の前の扉が開く。外の光がエレベーターに満たされる。眩しさに思わず目をきつく閉じてうつむくものの、光は目の裏側を焼き尽くすほどの強さで襲ってくる。僕は耐え切れずに両手で目を覆った。

やがて少しずつ光に目が慣れて、恐る恐る手を剥がして目を開ける。

そしてすぐに僕は絶望した。

足元は真っ白な砂で埋め尽くされていて、顔を上げても、その真っ白な砂漠は、空の境界に張り付くように続いていた。砂の白と空の青、2色だけで世界は構成されていた。

僕はその場に膝をつき、憎いくらい綺麗なそのコントラストを見つめた。何なんだ、これ。僕は東京にいたんじゃないのか。サラは言っていたじゃないか、ここは千代田区だって。霞ヶ関じゃないのか。庁舎の塊は、競うように立ち並ぶ高層ビルは、どこへいったんだ。いや、2億年も経っているんだ、そんなものはとっくになくなったとしても――。

どうして、なにもないんだ。

僕がいた世界では、人類は時を経て進化し続けていた。6000万年もの時を経て、火を得て、知識を得て、言葉を得た。国を作り、技術を学び、世界になった。誰もが、さらなる発展を望んでいたはずだ。2億年という時間をかけて、その進化を無に還したのか。いったい、何が起こったっていうんだ。

しばらく茫然と風に嬲られたあと、僕は立ち上がって歩き出した。行くあてはなかったけれど、とにかく進むしかなかった。生ぬるい風の音と、足下で砂が擦れあう音だけが響いていた。柔らかい砂を踏みしめるたびに、膝についた砂が剥がれるように落ちていく。

風が撫でるように首筋の汗を飛ばしてくれるけれど、汗は次々と体中から染み出して、頭のてっぺんからつま先まで汗でべとべとになっていく。顎先から汗が滴り、砂漠に線を作っていく。僕は両腕で滴る汗を拭いながら歩いた。目指していた小高い丘の頂上に着く頃には、僕は大雨に降られた後のようにずぶ濡れになっていた。

見渡す限りの地平線が憎いくらい美しくて、僕は息をついてその場にへたり込む。蜃気楼が地表に張り付いてゆらゆらと揺れている。

サラの言葉を思い出す。何かがあるかもだって? ここになにがあるっていうんだ。

途方にくれたまま、気がつくと汗は照りつける太陽とやわらかい風で乾いていた。僕は震える足に力を込めて立ち上がり、来た道を歩き出す。足跡はすでに風に転がる砂に埋もれていた。砂漠にぽつんと建っている小さな小屋のような建物が、僕が出てきたエレベーターの入口だ。

太陽はてっぺんにたどり着き、僕を見下してより強く輝いている。これから滑り落ちるその輝きを睨み、小さなエレベーターに向かって歩き出した。

 

 

 

日が沈むのと同時にエレベーターに乗った僕は、くたびれきった頭で現状を整理した。いまだ滝のように滴る汗は、もう袖じゃ拭いきれないくらいだった。

僕が2億年ものあいだ眠っていたことは、いまでも信じきれないことだ。僕は生きているし、こうして不自由なく動くこともできる。もしかしたら、記憶のなくなった僕を騙して、何かに利用しようとする誰かがいるのかもしれない。ここはほんとうにどこかの砂漠のど真ん中で、僕は何かしらの弱みを握られて怪しい研究に加担し、結果記憶を失い今に至る、なんて可能性もある。僕に覚醒前の記憶がない以上、信じられる要素なんてどこにもないのだ。

到着を告げる人工音声がエレベーター内に響く。乗るときにボタンが多すぎて困った僕は、とりあえずいちばん下のボタンを押していた。ボタンに階層を表す数字は書かれていなくて、エレベーター内に現在の階層がわかるような表示板もない。施設を出るときは、サラが操作してくれたおかげで地上に出られたけれど、今回は自分でわけもわからずに押してしまったから、どこに着いたのかわからないのである。

エレベーターから降りると、広く開けたホールに降りる。さっきまでいた階層とまったく同じだったから、運良く同じ階層に出たのかと安心してしまう。

僕はサラの名前を呼びながら、迷わないように左側の壁に沿って歩いた。聞いた話じゃ、ここは途方もなく広いみたいだから、きっと呼んでも無駄だろうと思ったけど。

施設内は空調が効いていて、気づくと汗は乾いていた。

真っ白な壁に等間隔に配置された半円形の柱の数を数えながら歩いていると、他と違う扉を見つける。扉の前に立つと、その灰色がかった扉の上半分に、ディスプレイもないのに赤い文字が表示される。『LEVEL5』。セキュリティの強さを意味しているのだろうか。中になにか重要なものでもあるのかもしれない。開けようとしてもびくともしなかった。

「ハル様、お帰りなさいませ。お迎えが遅れてしまい申し訳ございません」

思い切って体当たりで破れないだろうかと危ないことを思っていると、サラが小走りでこちらにやってきた。よかった、このままサラを見つけられなかったらどうしようかと思っていたところだった。

「サラ、この扉って……」

「……ここはLEVEL5――最重要機密区域です。私がアクセスできる機密はLEVEL3――中級機密区域までですので、私にもこの中に何があるのかはわかりません」

サラもこの施設の全ての区域に関与することはできないようだ。肩を落として、僕の部屋に案内するために歩き出したサラについていく。

「このアルクトゥルスには5段階の区域が存在します。廊下や食堂などの公共的な設備は最低ランクのLEVEL1――無機密区域で、ハル様が目覚めた部屋はLEVEL2――個人機密区域となり、登録者あるいは管理者のみがアクセス可能です。ハル様は、他の方の部屋に自由に出入りすることはできませんのでご注意ください」

僕が目覚めた部屋はそのままプライベートルームとして使わせてもらえるらしい。サラに頼めば、可能な範囲で必要なものを揃えてくれるという。

「ハル様、外の世界で何か得られましたか」

サラが前を向いたまま聞いてくる。その声はなぜか、なんとなく、少しだけ楽しそうな感じがした。

僕は首を振って、僕が見た絶望をすべて伝えた。

「そうですか」

春の風を浴びたときのようなその声は、次の言葉ではいつもの無機質さに戻っていた。

「私は外に出たことがないので」

エレベーターに乗ると、慣れた手つきでボタンを操作しながらサラが言う。

「ハル様が見た絶望的な世界すら、私には羨ましいのです」

そうか、サラはこの施設の専属のアンドロイドだ。外に出る必要がない以上、なにも知らないのだ。ビルの並ぶあの東京どころか、地平線まで見えるあの砂漠ですら、彼女は見たことがない。

でも、べつに外に出たらいけないわけじゃない。好きなように外に出ればいいのに。僕がそう言うと、サラは首を振ってエレベーターの天井を睨んだ。

「私のような自律思考型のアンドロイドは、インストールされたプログラム以外を行動しようとすると、自動的に機能を停止するように設定されているのです。これは人間が考慮しなかった思考ルーティンにより、私たちアンドロイドが予想外の行動をとるリスクを排除した結果、組み込まれた設定です」

なるほど、例えば何らかのエラーで人間と敵対するような意志がアンドロイドに発生してしまったりしたら……。そういったイレギュラーに対して万全を期すために作られたシステムなのか。

「……お聞き苦しい話をしてしまいました。私のことなど、ハル様には関係のない話でした。申し訳ございません」

サラが言うと、人工音声が響き、エレベーターの扉が静かに開く。僕はなんだかすこし残念な気分になりながら、サラに続いてエレベーターを降りる。

「私にインストールされたプログラムの最優先事項は、この施設の被験者、および研究者の命令に従い、あらゆる害から守ることです。なので――」

サラは僕のプライベートルームの扉を開けて立ち止まり、僕に振り返った。

「御用がありましたらすべて私にお任せください。先ほどのように呼んでいただければ、すぐに駆けつけます」

「うーん、用といっても特になあ……」

僕は首を捻って考えるけど、そもそもまだこの環境に慣れていないのだから、具体的には何も思いつかなかった。

「ご所望とあらば、性処理なども」いやいいです。

「まあ、うん、何かあったらすぐに呼ぶよ、ありがとう」

疲れ切っていた僕は、部屋の真っ白なベッドを見た瞬間に考えることをやめた。僕は頭を下げるサラに手を振ってベッドに身を埋めた。シーツの柔らかさを感じるとすぐに、意識が深い闇の中に落ちていった。

 

 

 

夢も見ないほど深い眠りから覚めると、白く輝いていた部屋の明かりが、オレンジ色の仄暗い明かりに変わっていた。眠りやすいようにサラが調節してくれたのだろう。でも、切り替えるスイッチなどは見当たらない。仕方がないのでそのまま部屋を出ると、あの眩しいくらい真っ白な壁が目に飛び込んでくる。

右側から小さな話し声が聞こえてくる。一人はサラだ。事務的な声で何かを話している。話し相手は――女の人みたいだけれど、誰だろう。

右隣の部屋の扉が開いている。もしかして、僕以外の被験者が覚醒したのか? 扉から覗き込むと、ベッドに座りながらサラの話を聞く女性と目が合う。

「ハル様、おはようございます。よく眠れましたか?」

サラが振り返って深く頭を下げた。僕は適当に返事その女の子から目が離せなかった。

その子は僕を見つめたまま動かなかった。肩くらいまで伸ばした黒髪と整った顔つきで、頭のよさそうな印象の子だった。歳はたぶん僕と同じくらいだ。

「この方は被験者J0004――カナ様です。カナ様、彼は先ほどご説明した先の覚醒者、ハル様です」

「あ、えと、よろしく」

僕はとりあえずそう言って、小さく頭を下げた。

「カナ様はハル様と同様、覚醒前の記憶をほとんど失っているようです。ハル様にはご説明したとおり、私はお二方の個人的なデータは閲覧することができません」

サラは僕たちを交互に見ながら説明する。

「ですが、ここに眠る被験者の方々は、互いに知人であるパターンが多く存在します。1つの学校の生徒全員が、このコールドスリープに参加しているという事例も聞いています。少なからず、お二方が互いに面識のある可能性はあるのですが――」

サラは僕たちの様子を見ると、首を振って説明を打ち切った。僕はカナというその少女を見るけれど、なにも思い出せない。思い出せそうな気配すらないものだから、僕は肩を落とした。

それでも、同じ境遇の人がいるのはなんだか救われた気分だった。絶望的な状況は何一つ変わらないけれど、不安が少しだけため息に溶けて体から出ていくようだった。

そうして人知れず安堵していると、僕の腹から滑稽な音が鳴り響く。こんな状況でも体は貪欲なのだ。寝ていなければ眠いし、何も食べなければ腹は鳴る。

「ひとまず、お二人ともお食事とお飲み物をご所望のようなので、食堂に案内します」

真っ赤になった僕の顔を見て歩き出したサラは、少しだけ笑っていた気がした。

 

 

 

食堂に案内され、サラに食事を出されるまで、僕たちは一言も会話をしなかった。カナはずっと黙り込んで何か考え込んでいたから、声を掛けられなかった。僕も同じように、ずっと考え込んでいた。状況は好転していないし、なによりわからないことだらけなのだ。それは僕にとっても、彼女にとっても同じで、だからこそどうにもならない。どちらかが少しでも多くのことを知っていれば、情報を交換することもできるのだけれど。

「あの、カナさん」

僕は勇気を出して声を掛けた。

「……カナでいいよ、同い年だから」

カナが笑顔で返してくるけれど、どこかぎこちなかった。

「じゃあ……カナ、覚醒前のこと、ほんとうに何も覚えてないの?」

少しだけでも、覚醒前に何があったのかを知りたかった。何せ今の僕は完全にゼロの状態なのだ。少しだけでも、手掛かりを知りたい。僕の記憶そのものに関わっていなくてもいい。せめて、地表で何が起こったのかということだけでも知りたかった。

「うん……でも、ときどき何か思い出せそうな気はするの。サラちゃん、だっけ? あの子が言ってたけど、この記憶喪失には個人差があるんだって。あたしはほとんど忘れちゃったけど、最初に起きた人はちゃんと全部覚えてたみたいだし」

カナも僕も記憶を失ってはいるが、その障害は致命的なものではないらしい。なにかのきっかけで少しずつ思い出すかもしれない。

「ハル君は、覚えてないの?」

カナが祈るような声で聞いてくる。カナも僕と同じように、少しだけでも情報がほしいのだ。何もわからないままこの新世界に放り出されたのだから、そう思うのは当然かもしれない。

「僕も覚えてないんだ、何も。カナみたいに、何か思い出せそうな感じもしない。覚醒してからの記憶しかない。まるで、それまでの僕なんてはじめからいなかったみたいで」

言いながら僕は、すこしだけ気持ちが楽になっていくのを感じた。状況は変わらなくても、こうして同じ境遇の人と話をするだけでも、精神的には落ち着くものだ。記憶に関しても、まったく思い出せる気配がない以上、カナみたいに、思い出せそうで思い出せないもどかしい気分にならなくてよかった。

「サラは記憶の手がかりが、地表のどこかにあるって言ってた。でも、ほんとうにあるのかな……そもそも、2億年も経ってるなんて、僕はまだ信じられない。あの景色も、なんだか偽物みたいで」

だから、記憶の断片を持っているカナに頼るしかなかったのだ。なにかのきっかけで思い出せるかもしれないのは、カナのほうだ。

「ハル君、外に出たの?」

「うん。……でも、なにもなかった。なにも――」

僕はあの真っ白な景色を思い出して頭を抱えた。こんな世界で、僕は記憶を取り戻せるのだろうか。いや、それよりも、生き延びることだってできるかわからない。食事や水はサラが持ってきてくれるけど、それが底を尽く日だって必ずくるはずだ

「大丈夫だよ」

思考がどんどん落ち込んでいく僕に、カナは力強く言った。

「きっと、大丈夫。生きていける」

カナの声には自信があった。これから起こることをすべて見てきたみたいに言うものだから、不安がすこし消える。

「それにほら、ご飯もおいしいんだから、ちゃんと食べないともったいないよ」

カナは手つかずだった僕の食事を見てそう笑った。もうさっきのようなぎこちなさはなかった。

カナも同じなのだ。不安で、仕方がない。当然のことだし、どうにもならない。だからこうして誰かと話して、自分に言い聞かせながら、この環境に順応していくしかない。この新世界で生きるためには、受け入れるしかない。

僕は食事を掻き込んだ。からっぽだった胃がすこしずつ満たされていく。

「ね、おいしいでしょ?」

カナはなぜか得意げだった。きみが作ったわけじゃないのに……。

「おいしいって感じるってことは、生きてるってこと。生きてるのに、あれこれ悩むのはもったいないよ。あたしも、なにもわからなくて不安だけど」

その言葉は次第に力を帯びて、より強くなっていった。自分に聞かせるように、カナは語っている。

「いまは、生きてる。それだけでじゅうぶん」

カナは胸に手を当てて、鼓動を確かめるように目を閉じた。

なぜか、この子といると不安が消えていくような気がした。胃の底にヘドロのように固まって、どこへも溶け出さないような予感のしていたあの黒い不安が、いまではもうどこにも気配を感じない。カナは、まわりの人にも影響を与えるくらい、強い人なのだ。