並行世界のミュージシャン(1)

僕の知り合いに、ろくでもないミュージシャンがいた。ミュージシャンというものはきまってろくでもないやつばかりなのだけれど、その人はとびぬけてすごい人だった。会うたびにビールで洗ってたばこの熱で乾かしたようなしわくちゃの服を着ていて、最近のバンドマンのようなしゃれたイメージとは程遠い。学歴や職歴なんてもちろんないに等しいし、うるさい両親はギターでぶん殴って黙らせた、なんて豪快に笑いながら言うような人だった。収入源なんてほとんどないのに、音楽で稼ぐ気はねぇとか言っていて、じゃあ何で生活できているのか聞くと、なんとパチンコとフリー麻雀だけでなんとかしているのだと言う。見事なまでの崖っぷち人生である。まあ崖っぷちにいると思い込んでいるのは彼自身だけで、僕にはもはや崖から数メートル向こうに飛び出して気合だけでふわふわ浮かんでいるようにしか見えない。 
 そんな彼に僕が興味を持ったのは、彼がステージで音楽を演っている瞬間だった。これは彼だけに限らない話なのだけれど、いいプレイヤーはステージの上に立たなければわからない。本番前に酒とたばこで胃と肺を塗りつぶしている瞬間を見ても、僕らにわかるのはその人のクズっぷりと酒の強さくらいだ。
 そのときの彼はベースコーラスを演っていた。最近ライブに招待されるようになって知ったのだけれど、彼はなんでもできる。ベースは当然のようにうまいし、ギターもドラムも他のプレイヤーよりずば抜けて良かった。彼の所属しているいくつかのバンドの中のひとりが、キーボードをやらせたい、と言っていたのも聞いたことがある。もしかしたらヴァイオリンやサックスなんかもさらりと演ってしまうんじゃないか。とにかく、それくらいなんでもできる人なのだ。
 彼が色んなバンドに所属していて、あらゆる楽器をこなしているのを僕は見てきた。彼はコーラスだけは絶対に譲らない。歌はそんなにうまいわけではないし、特徴的な声ってわけでもない。それなのにステージの彼の前には、必ずコーラスマイクが置かれている。
 ヴォーカルがマイクに魂を吹き込み、スピーカーを通してその熱を僕に送り込む。その熱情はぜったいに僕の心には届かず、ただ鼓膜を揺らすだけのものだった。もちろんその魂ははっきりと聴こえて、間違いなく僕を揺さぶるものだったはずだ。でも僕は彼の吹き込む魂を知ってしまった。ヴォーカルが吐き出す言葉のその奥に、その合間に、彼はほんとうの魂を僕に見せつける。腹の底から湧き上がるすべてを、酒とたばこで涸れきった喉を通して。そして気がつくと僕はいつも、ライブハウスの貼り紙だらけの壁を背にして床にへたりこんでしまうのだ。



 その日のライブは彼が演るバンドのなかでも、とくにずば抜けて素晴らしいバンドだった。彼がいちばん頻繁に活動しているバンドで、僕は必ず見に行くようにしていた。
 いつものようにライブ後に誘われた打ち上げで、僕は疑問をすべてぶつけた。
 「コーラスってのは魂なんだよ」
 紫煙でまっしろになった個室のなかで、対照的に真っ赤になった顔で彼が言う。
 「俺はべつにすげえプレイヤーじゃねえ。それは、俺がいちばんよくわかってる」
 彼は店員を呼び止めて、ビールを5本注文した。テーブルの少し離れた場所ではバンドメンバーの3人が豪快に笑っている。
 「コーラスってのは、魂なんだ」
 「おいハル、こいつの言うことまともに聞くなよ。アルコールで心臓動いてるようなやつだから」
 バンドメンバーのガタイの良いおっさんが横から口を出してくる。ドラムの、タケさんと呼ばれている人だ。やたらでかいくせに細かくてきれいな演奏をする、なかなか繊細な人だ。よかった、僕が抱いていた彼のイメージは、ほかの人も持っていたようだ。
 彼はタケさんを蹴っ飛ばして黙らせると、また僕を見て呟いた。
 「コーラスは、べつにバンドに必要なパートじゃない。なくたってサウンドは決まるし、そうだな……顔のパーツで言ったら」
 「テツ、きみはそういうたとえ話は苦手だろう。無理して頭が良さそうにしゃべるのはやめなよ」
 僕の隣に座っていた女の人が、彼をさえぎって話しだした。彼女はこのバンドでギターボーカルをやっているキョウコさんだ。彼女はまだ高校2年生だというのに、まさに圧倒的な力を持っている。ギターの技術はプロ並で、その喉から生まれる歌声は彼女の顔立ちと同じ美しさを持っている。あまりに美人で、だれに対しても高圧的な態度だから、みんな思わず敬語で話してしまうのである。メンバーの面々も彼女には頭が上がらないようで、いつも罵られながら素直に言うことを聞いているのだ。
 ちなみに僕はいまはじめてテツさんの名前を知った。彼はMCでたまにメンバーの紹介をするのだけれど、自分以外の紹介を終えたらすぐに次の曲をはじめてしまうからだ。もう何十回もこうして一緒に飲んでいるというのに、あいかわらず自分の愚鈍さに呆れる。
 「ハル、バンドを人の体にたとえてごらん」
 キョウコさんに綺麗な顔を近づけられて、僕は思わず身を引きながら答える。
 「え、ええと、ボーカルが顔で、ギターが腕で、ベースが足で、ドラムが」
 「残念、きみには音楽家の才能がないようだ」
 「ええっ、なんでっ」
 キョウコさんは運ばれてきた5人分のビールをみんなの前に置いてため息をついた。
 「きみはだめなプレイヤーの見本みたいな答えを言ったんだ。致命的な勘違いだ。その勘違いのせいで、音楽は一瞬で意味を失うんだよ」
 吸殻でいっぱいになった灰皿を店員に渡しながら言って、キョウコさんはビールを煽った。ほかの3人はにやにやしながら、僕たちの様子を見ている。
 「きみはたしかベーシストだったね。きみのバンドは一度だけ聴いたことがあるけど、できればもう二度と聴きたくないほど素晴らしい演奏だったよ」
 あまりにまっすぐな皮肉で、落ち込むより先に感動してしまったほどである。
 「いいかい、ベースというのはただのパーツではないんだ。ギターやドラムは手足として体についているものだけれど、ベースは違う」
 キョウコさんは僕の手をとって言葉を続ける。少しドキッとしてしまった。
 「ギターはときに2本になることもあるだろう、だから腕なんだ。両手が違う動きをしていても困ることはない」
 綺麗な手が僕の右手を開き、逆に左手は握った状態にさせる。キョウコさんが僕の顔を覗き込む。
 「ドラムは常に一定のリズムを刻み続ける。足取りは揺れてはいけない。歩くためには、力強さとリズムが必要だ。だから」
 「ドラムは足だ!」
 タケさんがジョッキを空にしながら叫ぶ。いいところを取られたキョウコさんがタケさんを睨むと、中途半端に笑いながら逃げるようにしてタバコに火をつけた。
 キョウコさんはまたため息をついてビールを煽った。
 「では、なにがその手足を動かしているのか、考えてごらん。きみは歩くときにいちいち頭で考えて足を動かしているわけではないだろう? きみのその手足に、なにが流れているのか」
 ついさっき握らされた左手をキョウコさんがゆっくり持ち上げ、僕の胸にとんと当てた。
 「ベースは心臓だ」
 僕の心臓が跳ねて脈打つ。そうだ、ベースが心臓を重く鳴らして、ドラムやギターに血液を送り込む。そしてバンドは動き出し、いのちを吐き出すように歩きはじめる。僕は知っていた。その歩みを、その一生を。何度も耳にしたサウンドが、頭のなかで再び鳴りはじめた。ドラムが踏み鳴らす足音、2本のギターが見えない腕となって僕を襲い、そしてそれらが動くための最初の熱が、僕の胸でひたすら脈打つ鼓動と重なる。
 僕の心音をちゃんと確認したキョウコさんが微笑んで言った。
 「これが、音楽だ」



 終電が近くなって、僕は一足先に帰ることにした。テツさんは金も持っていないくせに、僕には格好つけて奢ってくれる。4人は家が近いらしく、もう少し飲んでから帰るという。キョウコさんは女の子なんだし早く帰ったほうがいいんじゃないかと思うのだけれど、いつも最後まで付き合って飲んでいるようだ。というか、彼女が当然のようにビールを飲んでいることには誰もつっこまないようだ。あれだけ図太い態度なら、つっこんだ人を屁理屈で言い負かして、逆に説教するくらいのことはしそうである。 奥の方ではタケさんとギターのノブさんが正座してキョウコさんの説教を受けていた。タケさんは若干涙目になってこっちに助けを求めていたけれど、ノブさんはあいかわらず無表情で、何を考えているかわからなかった。
 帰り際にまたコーラスのことを思い出して訪ねてみた。途中から、テツさんがはじめてキョウコさんとスタジオに入った日の話になってしまって、聞くタイミングを逃してしまったのだ。テツさんも僕と同じように、キョウコさんにベースのなんたるかを教え込まれたという。罵られながら。
 だから言っただろ、とテツさんは熱燗を徳利からそのまま飲んで言った。魂そのものだと。



 しばらくして、僕はまたテツさんのライブを聴きに来ていた。
 心臓が血を送り出し、両手がうねり、歩き続ける、音楽。そしてテツさんが綺麗にコーラスを重ねて、その音楽に魂が宿る。
 いまならわかる気がする。人の塊だったその音楽に魂を吹き込み、聴く人すべてを呑み込むような音楽。コーラスなんてなくたっていいパートだと、テツさんは言っていた。僕だってそう思っていた。けれど、それはもう間違いでしかない。こうして知ってしまったのだ。生きている音楽を。
 僕は貼り紙だらけの壁から背中を離して、客の集まるステージ前をかき分けて飛び出した。テツさんが僕を見てにやりと笑う。
 「てめえらの魂見せてみろォ!」
 歌の途中にも関わらず叫びだしたテツさんを見て、キョウコさんが叫びだす。
 「テツ! いまは私が歌っているのだから、余計なことはしないでくれないか!」「うるせえっこんなにいい気分で叫ばずにいられるか!」「テツっあとで説教だ! 正座で彈きたまえ!」
 テツさんが素直に正座しだすものだから、キョウコさんもタケさんも吹き出して豪快に笑っていた。ノブさんもいつもの仏頂面を崩してにやりとしている。
 僕もテツさんも、誰もがその音楽を楽しんでいた。キョウコさんの歌声はたしかに熱を持っていて、その熱はテツさんのコーラスと混ざり合って間違いなく僕の体を、心を、がんがん揺さぶって逃がさなかった。これが、ほんとうの音楽なのだ。
 音楽は、生きている。